前回の続き。スペインの大まかな歴史を見ています。

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 今回は、西ゴート王国が滅亡する原因となった、イスラームの流入の話から入っていきます。

 イスラーム勢力のウマイヤ朝は北アフリカにまで勢力を伸張させると、711年にベルベル人を率いた軍司令官のターリクのもとで、ジブラルタル海峡 (Estrecho de Gibraltar)を渡ってイベリア半島へ上陸し、西ゴート王国を滅ぼしました。ちなみに、イベリア半島南端のジブラルタルにある岬をなす一枚岩のことを、このターリク司令官の名前を取って「ジャブル・アル・ターリク(アラビア語で「ターリクの山」)」と呼び、これが今のジブラルタルの語源となったそうです。

 勢いのあるウマイヤ朝は、サラゴサ (Zaragoza)やレオン (León)などイベリア半島の北部の都市まで進出し、カンタブリア山脈、ピレネー山脈付近を除くイベリア半島の大部分がイスラーム勢力の支配下に入り、「アル・アンダレス」として716年よりウマイヤ朝の属州となりました。その後、ウマイヤ朝は、ピレネー山脈を越えてフランク王国に戦いを挑みましたが、732年の「トゥール・ポワティエ間の戦い (Batalla de Poitiers)」で敗れたため撤退します。


 ところで、アラビア半島では、750年にウマイヤ朝が滅亡してアッバース朝が成立しましたが、この影響がイベリア半島にも及びます。756年にウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世がダマスカスからイベリア半島に逃げてきて、「後ウマイヤ朝 (Califato de Córdoba)」が建てられました。首都はコルドバ (Córdoba)です。



 一方のキリスト教勢力はと申しますと、718年に「アストゥリアス王国 (Reino de Asturias)」がスペイン北部に誕生して以来(914年に「レオン王国 (Reino de León)」と改称)、キリスト教諸国は小さな国を次々と設立していきます。それ以来、それぞれの地域で、時にはイスラーム勢力と、時にはキリスト教勢力同士とで争いを繰り返します。日本語では「国土回復運動」(キリスト教徒にとってみれば、イスラームからの「国土」を回復する動きである)と訳される「レコンキスタ (Reconquista: スペイン語では「再征服」の意味)」がここから少しずつ始まります。

 イベリア半島にはピレネー山脈の向こうからもキリスト教の勢力がやって来ます。778年に、ピレネー山脈を越えてきてイベリア遠征を行っていた「フランク王国 (Reino de los francos)」のカール大帝と後ウマイヤ朝が衝突しました(ロンスヴォーの戦い)。この遠征によって後ウマイヤ朝は敗れ、勢力は後退します。この時のエピソードをもとにした騎士道文学作品と言えば、あの有名な「ローランの歌」ですね。795年にフランク王国はピレネー南麓にスペイン辺境領をおきました。801年にスペイン辺境領はバルセロナまで南進し、「バルセロナ伯」をこの地におきました。

 824年にフランク王国から独立しようと考えたバスク人たちが「ナバーラ王国 (Reino de Navarra)」を建国しました。

 これからまもなくしてフランク王国は解体され、スペイン辺境領もバラバラになり有力諸侯たちがたくさん登場する中で次第に大きな3つの国が生まれます。それが、地中海沿岸を中心に勢力を拡大した「アラゴン王国 (Reino de Aragón)」とイベリア半島中部で勢力を拡大した「カスティーリャ王国」及びそこから分かれた大西洋側の「ポルトガル王国」です。詳しくはもう少し後で見てみましょう。

 一方、後ウマイヤ朝は、10世紀前半のアブド・アッラフマーン3世のもとで最盛期を迎え、自ら「ハリーファ (カリフ: 預言者ムハンマド死後のイスラームにおける最高指導者のことを指す)」と称して、アッバース朝、ファーティマ朝といった他のイスラーム勢力に対抗しました。首都のコルドバ (Córdoba)は、トレド (Toledo)とならんで西方イスラーム文化の中心地となり、多くの学者が活躍しました。しかし、10世紀後半には、侍従が「ハリーファ (カリフ)」の権限を形骸化させて実権掌握を図るなど混乱が続き、短命で指導力を欠く「ハリーファ (カリフ)」が相次ぎました。このような中、1031年に内紛により後ウマイヤ朝は滅亡しました。 

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 この後、「第一次ターイファ時代」と呼ばれる時代が到来しました。「ターイファ」とは、独立したムスリム支配の君主国、 首長国あるいは小王国をさす言葉です。この時期にイスラームの小国家がイベリア半島内に誕生します。代表的なターイファは、セビーリャ王国、トレド王国、サラゴサ王国、グラナダ王国、バレンシア王国などがありました。


 ここで西ヨーロッパの様子を少しだけ見ますと、人口が急増します。彼らはイベリア半島にやってきてイスラーム勢力をイベリア半島から追い出そうとする「レコンキスタ」に関わるようになってきます。

 このようにイスラーム勢力が半島内で小国に分裂すると、キリスト教勢力はいよいよイベリア半島を取り返す「レコンキスタ」の動きが活発化します。イベリア半島内で様々な場所で見られましたが、代表的な流れとして、大きく3つ取り上げることにしたいと思います。 
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 第1に、スペイン北東部にあったアラゴン王国・カタルーニャ (バルセローナ)のルートをご紹介しましょう。「アラゴン王国」は、8世紀のイスラームのイベリア侵入の際にピレネー山脈に逃げ込んだ西ゴート王国のキリスト教徒たちが9世紀始め頃から次第に集団的にまとまりを見せたことがきっかけとなって誕生しました(1035年)。一方の「カタルーニャ(当時はバルセローナ伯領)」は、801年にフランク王国のカロリング王朝のルイ敬虔王が、南フランスからピレネー山脈を越え、イベリア半島北東部のバルセロナをイスラム教徒から奪回したのが始まりです(前述したことを詳しく書きました)。当初はフランク王国のスペイン辺境伯領として発展しましたが、やがて「カタルーニャ君主国 (Principado de Cataluña)」として発展します。やがて、アラゴン王国と婚姻関係などで同盟を締結し(1137年)、後に「アラゴン連合王国 (Corona de Aragón)」として西地中海の覇権を握るほどの勢力を誇示するようになっていきました。 


 第2に、半島中央を北部山岳地帯から南部へと貫く中央ルートをご紹介しましょう。この地域は、前述したアストゥリアス王国(718年設立)が中心となり、イスラームや他のキリスト教系小国家との関係から、レオンに首都を移転し(914年)、さらに「城 (カスティーリャ)」と呼ばれる伯領を設置しました。その後、紆余曲折があり、1035年にフェルナンド1世が「カスティーリャ伯領」をナバーラ王のサンチョ3世から相続により取得した際に「カスティーリャ王」を称し、1037年には妻サンチャの兄であったレオン王のベルムート3世を倒してレオン王位を獲得し、「カスティーリャ=レオン王国」が誕生しました。

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 1085年にカスティーリャ王国のアルフォンソ6世 (Alfonso VI)は、かつての西ゴート王国の都であったトレド (Toledo)をついに奪回します。この時にトレドの中の図書館にあった大量のアラビア語の書物を発見し、これをラテン語に翻訳するように命じます。すると、ここにはアラビア関連の書物だけではなくプラトンやアリストテレスなどの古代ギリシアの文献も数多くあることが分かりました。ここからトレド翻訳学派 (Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれる学者さんたちが活躍し、「12世紀ルネサンス」に大きな影響を与えました。

 一方で、劣勢に立たされたイスラーム勢力は北アフリカに援軍を求め、1086年にアルジェリア北西部などに勢力を誇っていたベルベル人のムラービト朝がやってきて、「ターイファ」諸王国を統一しました。1091年にはコルドバとセビーリャを占領し、1102年にはバレンシア、1110年にはサラゴサを占領しました。しかし、すぐにカスティーリャ王国が勢いを取り戻したのに加え、イスラームの小国とムラービト朝の対立が深まり、1130年にモロッコで成立したムワッヒド朝に滅ぼされ、再びイベリア半島は「第二次ターイファ時代」と称される分権的な状況が生まれました。ムワッヒド朝は本格的にイベリア半島に進出しようと試みたものの、1212年にはカトリック連合軍との「ナバス・デ・トロサの戦い (Batalla de Las Navas de Tolosa)」で決定的な敗北を喫したことから、「第三次ターイファ時代」を迎えるに至ってしまいました。

 


 最後にイスラーム王朝で残ったのは、周囲を山で囲まれたグラナダ (Granada)というところにあった「ナスル朝グラナダ王国 (La dinastía Nazarí)」でした。攻めにくい土地で苦戦していたカスティーリャ王国は、先に述べた「アラゴン王国」と同盟を結びました。具体的には、アラゴン王国のフェルナンド2世(Fernando el Católico)とカスティーリャ王国の女王であったイサベル1世(Isabel la Católica)が1469年に結婚し、スペイン王国を誕生させました。1492年、スペイン軍がグラナダに侵攻し、アルハンブラ宮殿 (La Alhambra)を攻略。こうして、「レコンキスタ」は完結しました。

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 第3に、イベリア半島の西部の大西洋岸に位置したポルトガルのルートをご紹介しましょう。ポルトガルは1143年に誕生しましたが、レコンキスタ運動が終了し、1385年にカスティーリャ王国から独立すると、やがて海洋国家への道を突き進むことになります。特に、実は船に弱かったと言われているエンリケ航海王子が探検事業を始めたのは有名ですね。この講座はスペインについての講座なので、これ以上は言及いたしません。

 このようにイベリア半島における「レコンキスタ」は終わるのですが、ここで注目すべき点は、イベリア半島におけるイスラーム支配が、実に750年以上にも及んでいる点です。日本の歴史で言うと、奈良時代から戦国時代頃にかけてイベリア半島にはイスラームが存在していたという事実です。これは、前回の講義で触れたローマ帝国がイベリア半島にやってきて支配していた期間よりも長い期間、イスラームがイベリア半島にいたことにもなります。これだけ長い期間イスラーム勢力が存在したのですから、イベリア半島がイスラームの影響を受けないはずがありません。
  1. 前述しましたが、キリスト教徒(カスティーリャ王国)がイスラームからトレドを奪還した後、「トレド翻訳学派」と呼ばれた学者さんたちが、イスラームが残していった文化やアラビア語で書かれた古代ギリシアの文化などの文献をラテン語に翻訳してヨーロッパに紹介したこと。
  2. アラビア語のスペイン語への流入。後に他のヨーロッパ諸国の言語にも影響を与える。
  3. イスラーム勢力の中心地であったコルドバやトレドには、イスラームだけでなく、キリスト教徒やユダヤ教徒なども居住し、お互いが共存していた。
  4. 「灌漑技術」などの技術の飛躍的成長。アルハンブラ宮殿などにそれらを見ることができるほか、現在においてもオリーブの生産における灌漑施設に影響を与えているとも言われている。 
 ほんの一例を紹介しましたが、イベリア半島はもちろんですが、当時のヨーロッパ社会から言語に至るまで、大きな影響を与えたのだということが分かります。そして、勘の鋭いみなさんであれば分かっていただけると思いますが、スペインの地形の特徴を扱った講義でご紹介したナポレオン1世の「ピレネーの向こうはアフリカである」という言葉もこういった歴史を学ぶと分かる気がしますよね。このような感じで、以前にこの講義で取り扱った内容の復習もやっていくようにしましょう。


 さて、ボチボチ講義のまとめに入っていきましょう。こうして「レコンキスタ」はキリスト教徒の大勝利に終わるのですが、時として「大勝利」は自制心をなくし、残酷な道への第一歩を踏み出すことがあります。キリスト教の勝利は他宗派であったユダヤ教やイスラム教を信じる人たちをイベリア半島から完全に追い出す方向に舵を切っていくことになりました。「スペイン異端審問」が本格的に始まります。さらに、グラナダが陥落した同じ1492年には、イサベル1世が雇ったイタリアのジェノバ出身の商人のクリストファー・コロンブスが新大陸を「発見」しました。ここから、スペインやポルトガルは、キリスト教が広まっていないアジアやアフリカやアメリカに進出していくことになるのです。

 次回は一度歴史の流れを一歩止めて、スペインの国章のお話をし、その次から「太陽の沈まない国」 として、どのようにスペインが歩みを進めたのかを学習することにしましょう。









 

 

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